生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る (幻冬舎新書)
高井 研
幻冬舎 2011-01
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生命とは何か。
この不思議な存在を、神という言葉を使わずに解き明かすことは可能だろうか。
それはずっとぼくのテーマだった。
1. 連続的な状態
すこし話はそれるが、昔、京大の霊長類研究所にいた友人に「意識は進化のどの時点から生まれるのか」と聞いたことがある。
彼の答えはこうだった。
「意識のあるなしは連続したもので、ある時点で突然生まれるものじゃないんだ」と。
聞いてみれば、そりゃそうだよなと思う。
意識とは、脳の一種の「状態」 だと考えてみればいい。
高原と低地に境界がないように、健康と病気とに境目がないように、ある状態と別の状態との間にあるのはただ相対的な変化だけだ
そう考えてみれば、イヌには人間のような意識はあるのか、トカゲはどうかといった議論はナンセンスだとわかる。意識が、生命の進化の長い過程の中で脳がしだいに持つようになったある種の「状態」のことであるなら、そこに絶対的な「はじまり」は存在しない。
だが、生命そのものについて考えるときぼくたちは同じ誤りを犯しているかもしれない。
生命とは何かとぼくたちは問う。その起源はいつか、と。
一体いつから、自らの意思(もちろんそれは人間が持つような意思とは異なるが)を持ってうごめき、群れ、自己を保存し、種を存続させようとするこの不思議な存在は生まれたのか。
しかし、もしそうした「自己保存」や「種の存続」といった定義によって生命というものを同定し、「物質」との対比で生命を捉えようとするなら、その誕生は永遠に解けない謎となるだろう。何故ならそうしたやり方は、「無」からいかにして「有」が生まれるかという問いを立てることとイコールだからだ。
決して無から有は生まれない。そうなると生命の誕生は永遠の謎となってしまう。だが、生命もまたひとつの「状態」なのかもしれないとしたらどうだろう。
2. 自己組織化
1977年、イリヤ・プリゴジンという化学者が「散逸構造論」でノーベル賞を受賞した。
以下、Wikipediaから引用する。
散逸構造とは、平衡状態でない開放系、つまり、 エネルギーが散逸していく流れの中に自己組織化によって生まれる、定常的な構造のことだ。
散逸構造は、岩石のようにそれ自体で安定した自らの構造を保っているような構造とは異なり、例えば 潮が流れ込むことによって生じる内海の渦潮のよう に、一定の入力のあるときにだけその構造を維持し続けているようなものを指す
プリゴジンが提起した概念はきわめて画期的だった。
上にある渦潮の例に限らず、「自己組織化」と呼ばれる現象は自然界に数多い。そこでは、ある種の構造がエネルギーの流れの中で自然発生的に生まれ、エネルギーの供給が続くかぎり存続しつづける、ということが常に起こっている。宇宙には元々、そうした自律的なはたらきが備わっているのだ。
生命とは他でもない、自己組織化によって生まれた散逸構造のひとつの形態だと言える。
この発見によって、人類は生命と非生命とをひとつの枠組みで語る方法論を手に入れた。そのふたつは、もはや無と有の関係ではなくなった。つまり、必要十分なエネルギー供給が存在するある種の環境下で発生した散逸構造が、その維持の継続性を自ら担保する構造へと遷移した時に、それは生命と呼ばれる状態になるのだ。
そのように捉える時、非生命と生命を隔てる境界線はきわめてぼやけたものになる。そして、「生命の誕生」という特権的な瞬間は存在しなくなる。
3. 生命の内と外
この本の中で著者は生命に関するいくつかの定義を紹介しているが、Oriver & Perry(2006)による定義はこうした散逸構造のイメージに沿っている。
生命とは、外的および内的変化に応答し、自己の存続を推進するような方法で自己を更新する自律系を可能にするような事象の総和である
多少難しいが、ここから読み取れるのは、生命は環境の絶え間ない変化の中に常に晒されていること、それゆえ生命の存在は決して固定的なものではなく、絶えず推進・更新されるべきものであることだろう。
それは自己組織化する散逸構造としての生命の捉え方に他ならない。
こう定義する時、生命は時間軸上において相対的である(生命の誕生という特権的な瞬間はない)だけでなく、空間的にも相対的な存在となる(生命の外部と内部を隔てる明確な境界もまたない)。
先の生命の定義を問うくだりで、著者はこんな風に述べている。
生命の定義?あんまり最近は気にしてないねぇ。近頃は生命を生命だけで考えたことないしねぇ。生命が生命だけで存在することはあり得ないしねぇ。生命を取り囲み、生命を含んだ環境(生命圏)の在り方やその中のエネルギーや物質の流れがむしろ重要なんじゃないかと思うしねぇ
独特の文体が気になるが、ここで言いたいのは、生命は常にエネルギーの流れの中にあること、それをどこからどこまでが生命に属するものでどこからは外部だという風に輪郭を規定することには意味がないこと、生命について考えようとするならエネルギーの流れの全体を捉え、その振る舞いの総体を見るべきであることだろう。
これもまた散逸構造の考え方に則っていることは言うまでもない。
「人はひとりでは生きていけない」というが、生命そのものが実は独立しては存在し得ないということだ。それは単に酸素が必要だとか栄養物が必要だという話ではない。まず生命があって、それが酸素や栄養物を必要とするのではなく、そもそも生命とそれを取り囲む環境とはひとつの「現象」であり「状況」であって、それらを分けて考えることはできないということなのだ。
むしろ環境という多種多様なエネルギーのせめぎ合う「場」の中に浮かび上がった結節点のようなもの、それこそが生命の姿であるからだ。
4. 生命の誕生
もう一度「生命の誕生」という話に戻ろう。
問題は、現れてはエネルギーの枯渇とともに消滅する高分子体の散逸構造が、どんな場所で、かつどうやって半永続的にエネルギーを獲得し、自らを維持し続けられるようになったのか、ということだろう。
著者は、その場所を原始海洋の至るところにあった「熱水活動域」としている。その多くは、
高温かつ激しいマントル対流が引き起こす地殻をビリビリに切り裂くプレートテクトニクスの拡大軸で起きるものであった。
そして、そこで起こった(と思われる)現象を次のように描写する。
しばらく引用が続くが、専門度の高い話なのであえてそのまま紹介する。ただ、全部は引用できないので、その先は原書を参照してほしい。
熱水活動がどのようなものであったにせよ、熱水活動自体は無機・有機物を濃縮し、数多くの有機物発酵生命が誕生する場となった。無数に誕生する有機物発酵生命のほとんどすべては、硫化鉱物の持つ高い化学反応性や触媒活性を取り込む進化を遂げたり、互いに「混じり合い」「補完し合い」「奪い合い」を繰り返し多様性を増大させたりしたが、有機物供給が枯渇するにつれ、最終的な生命活動の持続に必要なエネルギーを確保することができずに消え去って行った。
こうした「一発屋」的な生命の誕生は「原始地球で数え切れないほど起きたはずなのだ」と著者は言う。
もしその場で私が観察できていたら、「おっ、こっちは化学進化というレベルを超えているね。あっちのはまだ単なる化学反応の寄せ集めだね。全然ダメだね。おぉーあれあれ、一回増えちゃったんじゃない?もしかして最古の生態系イっちゃう?イっちゃう?あーやっぱりだめか」みたいな感じ。
それは一般的な散逸構造のほとんどがたどる姿だ。だが、ごくまれに例外的な状況が発生することがある。
当時の海底熱水では優占的であった、コマチアイト熱水活動域の熱水には、他の熱水にはない特徴があった。熱水に含まれる水素の濃度が群を抜いて高かった。このようなコマチアイト熱水活動域に誕生した無数の有機物発酵生命の中から、熱水から供給される高濃度水素と海水中の二酸化炭素をエネルギー源として原始的なメタン生成やその他の水素エネルギー代謝能を持った「最古の持続的生命」が生まれた。
このように見ていった時、浮かび上がってくるのは、生命とは化学反応の連鎖の一形態にすぎないというひとつのビジョンだ。
ある高エネルギーの場において、一群の高分子体による複雑な化学反応の連鎖が、ある状況の中で、その反応そのものを持続させる反応形態へと遷移する、その時に生命が誕生したという訳だから(それを生命と呼ぶのは、もちろん人間の勝手な都合でしかないのだが)。
それを宗教と科学の対立という観点から捉える人もいるだろう。しかしそれは間違っている。
5. 言語という限界
そもそもぼくたちはなぜ生命を、というよりも「存在」を特権視するのだろう。
エネルギーの渦巻く「状況」の中から生命という「存在」だけを取り出して語ることには意味がないし、連続的な状況の変化の中からある「状態」(自己組織化、または持続的な自己組織化という状態)だけを切り出して語ることにも意味はない。それはここまでで見てきたとおりだ。
にも関わらずぼくたちが「存在」を特権視するのは、恐らく人間の認識構造そのものに関係がある。
雪片曲線論 (中公文庫)
中沢 新一
中央公論社 1988-07
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「雪片曲線論」(青土社、1985年)の中で中沢新一はこう述べている。
世界中のあらゆる言語においてベースとなっているのは、まず主語(S)を特定し、次にその振る舞いや状態を述べる(述語=V)、いわゆるS+Vの構造であると。
この認識構造で世界を捉えようとすれば、まず「存在」というかたちで主語を切り出し、次にそれが環境とどう関わるかを見ていく(=述語)、という順序にならざるを得ない。存在と環境が渾然一体となった状況を、そのままで掴み取ること(それは恐らく述語だけで世界を描いてみせることに等しい)は言語にとって、ということはすなわち人間にとって簡単ではないのだ。
科学と神(宗教)との対立という観点で言えば、実はそこで語られている神という概念そのものが、そもそも上で見た言語の構造と無縁ではない。神という概念が、混沌とした世界の中に絶対的な(一神教的な)ひとつの存在を打ち立てるということであるならば。
ある意味で、(絶対神としての)神もまた人間の認識構造の限界から逃れ出てはいないということだ。
つまり、生命を「存在」としてではなく「状況」として捉えようという考え方は、神や宗教に対する科学の優越ではなく、人間の認識構造に対する、もしくはそれを無自覚に是として疑わない思考形態へのアンチテーゼというべきだろう。
その対象には、他でもない科学そのものさえ含まれている。例えば、物理学の最先端では「究極の物質の根源、究極の素粒子は何か」といった探求が行われている。しかし、その答えは恐らく生命のケースと似ていて、量子場においてさまざまに変化するエネルギーの、その時々の状態がさまざまな素粒子の形態を取って現れてくる、ということなのだ。素粒子という根源を追求することには恐らく意味がなく、どういうエネルギーの状況の中でどんな変化と反応が起きているのかを見るべきなのだ。
6. 神はいるか
ここまで、あえて絶対神としての神について考えたが、実際には絶対神は世界の宗教史上においてむしろ少数派だ。
インドのブッダはかつて世界を「空」の概念で捉えようとしたし、中国人は世界を概念ではなくあくまでも実践的な行動哲学において語ろうとした(孔子や老荘など)。また、ぼくたち日本人は世界を森羅万象に潜む霊性において捉え、八百万(やおろず)の神という考え方を生み出した。
同じ神とは言っても(もしくはそれを神と呼ばないにしても)、主として東洋におけるこうした世界観は、ある種のエネルギーの「状態」として世界を捉えようとする思考に近い。例えば、仏教における「空」の概念は、そこに何もないということではなく、存在が「空」ということだ。それはすべてが生々流転する場であり、生者必滅すなわち諸行無常の世界なのだ。
そうした世界観は、「存在」とその「振る舞い」という人間の認識構造のパターンを何とかして超越し、世界をありのままに(述語だけで)捉えようとする人々の思考の苦闘の跡であるように見える(それを象徴するように、日本語においては、しばしば主語が消滅しても文が成立する。そもそもが、主語と述語の間に形容詞や副詞など他の要素が入り込むことによって、主語と述語の関係を曖昧化するのが日本語の特徴ではある)。
そうした観点からすれば、科学と宗教は対立するどころか、かなり近い世界観を目指す動きさえあることが見えてくるのではないだろうか。
唯物論からすれば神は存在しない。だが、問題は「神とは何か」、言い換えれば、ぼくたちは神という概念で何を表現しようとしているのか、ということだ。
神を、つかのま生あるものを生じさせ、作用させている巨大なエネルギーの場であると捉えるならば、それは万物の創造主と呼ぶにふさわしく、常にそこに神はいる、と考えてもまったくおかしくはない。
考えてみれば、さまざまなレベルのエネルギーがせめぎあう場において、さまざまな自己組織化パターンが励起し消滅するその状況は、きわめて科学的な分析と考察を経た後でなお美しく、かつ神秘的ですらある。そこにおのずと生まれてくる畏敬の念は、科学を知ろうと知るまいと、いや知ってなお大きくなりこそすれ、小さくなることはないように思うのだが、どうだろうか。