2013年11月10日日曜日

クルマ社会・7つの大罪(増田悦佐)

今年も所沢のジャズフェスティバルが11月17日に開かれる(詳細はコチラ→「所沢JAZZバル2013」http://www.tokorozawa-jazz-bar.com/jazzbar2013/)。

普段ジャズは聴かないのだけど、あえてここで話題にしたのには意味がある。


街中のジャズと言えば、1930年代アメリカで隆盛を誇ったビッグバンド" ジャズだが、戦後それが急速に衰退していったのは何故か、という問いをクルマ社会化と結びつけて論じた本がある。

クルマ社会・7つの大罪クルマ社会・7つの大罪
増田 悦佐

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この本は、クルマという文明の利器がいかにアメリカ文明を衰退に導いたかということを、7つの視点から解き明かしていく構成になっている。

その章立てはこんな感じだ。

  1. エネルギー" スペースの浪費
  2. 行きずり共同体の崩壊
  3. 家族の孤族化
  4. 大衆社会の階級社会化
  5. 味覚の鈍化と肥満の蔓延
  6. 自動車産業の衰退
  7. 統制経済への大衆動員

もっとも「7つの視点」はちょっと振りかぶりすぎで、最後の方は燃料切れの感がなくもない。特に最終章「『クルマ社会』死後の世界で日本はどうなる?」では日本がテーマとなっているだけに、肝心のところが消化不良気味なのが少々残念ではある。

とは言えなかなかの力作であることは間違いなく、7つの論点のいずれも目からウロコの展開で、豊富なデータとともに語られる論旨には説得力がある。


その中で、ビッグバンド" ジャズの衰退とクルマ社会化の関連を論じているのが、第二章「行きずり共同体の崩壊」だ。

駅前広場とビッグバンド" ジャズの隆盛

鉄道華やかなりしころには、ちょっと大きな駅前には必ず広場があった。そして、駅前でみんなが一緒に楽しめるような催しがひんぱんに開催されていた。

20~30人編成のジャズやヒットソングを生で演奏する楽団が、アメリカ中で我が世の春を謳歌していた。当時のビッグバンドは、正真正銘の総合的なエンターテインメントだった。非常にバラエティに富んでいて、誰もが楽しめるようなライブ・パフォーマンスが、全国津々浦々の主要駅の駅前広場を中心にあっちこっちで演じられていた。

このビッグバンド人気が第二次世界大戦後急激に衰退するのは、レコードやラジオで安上がりな再生芸術として大衆音楽が楽しめるようになったからだ、というのが通説になっている。

誰でもラジオさえ持てばただで音楽が聴けるようになった。だから、わざわざ入場料を払ってライブで聴きに行くのが面倒くさくなった。あるいは、蓄音機とレコードさえ持てば、いつでも自分が聴きたいときに自宅でレコードをかければ必ずまったく同じ音楽が聴けるようになった。だから、さっぱりライブに行かなくなってしまった。

この因果関係は、確かにとてもわかりやすい。しかし著者は、ジャズ評論家ジーン" リースの「(それは)生ものと缶詰というまったく違うものに対する需要を混同した議論だ」という言葉を引用しながら、それを否定する。そして、当時のレコードやラジオはまだまだ品質的に発展途上だったのだと断じている。

レコードについては、音を再生する能力がすごく弱く、雑音がいっぱい入っていた。ラジオにいたっては、時々ほかの局が混信したりして、非常に質の低い再生芸術でしかなかった

そんなものにビッグバンド" ジャズを駆逐する力は本来なかった。むしろ真相はこうだ、と著者は言う。

自動車の普及と鉄道会社自体の不況や戦争を口実にした極端な過小投資のおかげで、鉄道の乗客が激減して駅前広場がすたれてしまう。だから、駅前でひんぱんに軍楽隊のマーチだとか、ビッグバンドのジャズとかが聴けなくなってしまった。人間は、親しむ機会がなくなると、たとえばライブ" ミュージックは缶詰であるラジオとかレコードで聴くのに比べて、こんなにおもしろいものだということも忘れてしまう。おもしろさが分からなくなってしまったから、聴かなくなってしまった。

みんながそちらに傾斜するとそれなりにカネが入って、徐々に(引用者註: ラジオやレコードの)技術も進歩してくる。だんだん、再生の精度も上がってきた。聴くに堪えないほどの混信や雑音に悩まされることもなくなり、毎回まったく同じ音が同じ順番でくり返される異常さになれてしまえば、それなりに鑑賞に堪える芸術と評価できるようになってきた。

鉄道が衰え、アメリカ人の生活がクルマ中心のものに変わっていったために、「乗り合わせた一両の電車や駅前の雑踏の中に形成される行きずり共同体」が崩壊していった。そのことがビッグバンド" ジャズの文化を衰退させるきっかけとなり、それに代わる音楽の楽しみ方としてラジオやレコードが発達していったのだ、というのが著者の分析だ。


そして、著者の思考は、さらに行きずり共同体の崩壊がもたらした(とりわけぼくたち日本人にとっては)思いもかけない影響に及んでいく。

復員兵を日常に迎え入れるために必要なもの

復員兵の中で精神障害、情緒障害を起こして社会復帰が困難になった人たちの比率が、朝鮮戦争では第二次大戦と比べて若干増えた程度だったのに、ベトナム戦争では激増した。

その背景としてよく言われるのは、ベトナム戦争に対するアメリカ社会の受容の問題だ。誰の目にも「大義ある戦争」だった第二次大戦や(多少疑問が出てきていたものの)朝鮮戦争と比べ、ベトナム戦争では大義の在り処が相当あやしくなっていたからだ。故郷で復員兵たちを迎え入れるはずのパレードや記念行事はなく、代わりに待っていたのは住民たちの冷ややかな目だった。

だが、著者はそれとは違う側面からの分析を提示する。

朝鮮戦争当時までは復員兵は船や列車に乗り合わせた集団として故郷に戻っていった。港や駅には彼らに共感を示す行きずり共同体が自然発生的に形成された。そして朝鮮戦争のころ、ショートボブにした真っ赤な赤毛がキュートなティリーザ" ブリューワーが歌った『想ひ出のワルツ』のような、アメリカが戦時体制に入った時期に特有のセンチメンタルなヒット曲が、彼らをやさしく包みこんだ。この曲は出征した兵士との再会を願うヒット曲としては、アメリカ最後の名曲だった。

これに対して、

ベトナム戦争の復員兵は、航空機とクルマでばらばらの個人としていきなり戦場から平和なアメリカ社会に投げこまれた。そして、ベトナム戦争の頃には航空便の大衆化も進み、太平洋はだいたい飛行機で渡って、本土に帰ってからも飛行機を乗り継いで自分の故郷に近い空港に行き、そこからまたクルマで帰るというケースが多くなる。何がいちばん違うかというと、長い時間をかけて共同体的な雰囲気の中で本土に帰るための、言わば慣らし運転をする時間が、どんどん短くなっていったのだ。

戦場という異常な場所できわめてストレスの高い経験をした人々をもう一度日常の中に戻すためには、物理的な距離と時間と、そこに形成されるある種のコミュニティとが必要だった。

船と汽車、そして港と駅はそれを提供する装置として機能していた。だが、航空機とクルマがそれに取って代わったとき、そこからは時間が失われただけではなく、行きずりのコミュニティもまた失われたのだった。


著者は、デーヴ" グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』からこんな一節を引用している。

...おまえのしたことは正しいと安心させてもらえないと、感情の内向が起きる。ベトナム戦争から戻った兵士たちは(中略)輸送船での長旅の間に仲間どうしで語り合うこともできなかった。勤務期間を終えた兵士たちは、飛行機でたちまち「世間に復帰」させられた。敵と最後に戦ってからわずか数日、ときにはたった数時間後である。迎えに来てくれる仲間の兵士はおらず、自分の体験を語りあえる同情的な共鳴板はどこにもなかった。...

ここでクローズアップされるのは、行きずりのコミュニティが緩やかな共感によっていかに人々をやさしく包みこむ空間を提供してきたかということであり、その形成に港や駅がどれほど寄与してきたかということだ。

そして逆に浮き彫りになってくるのは、クルマがそれとは正反対のきわめて個人主義的な乗り物であるという事実だ。

クルマ社会と都市の荒廃

ちょうど先ごろデトロイト市の破産がニュースになった。

米ミシガン州のデトロイト市は18日、連邦裁判所に対して破産手続きの申し立てをした。負債総額は180億ドル(約1兆8千億円)以上あるとされ、米国の地方自治体の財政破綻(はたん)としては過去最大になる。

デトロイト市はゼネラル・モーターズ(GM)が本社を置くなど、米自動車産業の中心都市として知られ、1950年には人口が180万人を超えていた。しかし、自動車産業の衰退や治安の悪化などによって人口流出が続き、現在は約70万人にまで減少。収入が少ないままに借金を重ねたことに加え、都市インフラの維持費用や退職公務員への年金支払いなどがかさみ、財政難に陥っていた。(朝日新聞デジタル 2013年7月19日 から抜粋)

この記事にも見られるように、デトロイトと言えばアメリカ自動車産業の象徴的な都市であり、その荒廃はビッグスリーの凋落とセットで語られることが多い。

だが、著者はここでもまた通説に異議を唱える。

彼によればデトロイトの衰退は、ビッグスリー隆盛の真っ只中ですでに始まっていたのだという。

たとえば、1965年当時の全米大都市の凶悪犯罪発生率をみると、デトロイトは殺人で1位、強姦、強盗でそれぞれ2位と、トップランクに位置している。1965年と言えば、ビッグスリーが仲良く大増収" 大増益を続けていた年だ。その時点ですでにデトロイトは、アメリカで1、2を争うすさんだ大都会に成り果てていたことがわかる。

また、デトロイト最大かつ最高級のデパートであるハロルドのデトロイト都心店が売上最高額を記録したのは1953年だそうだが、これは自動車産業が我が世の春を謳歌する前のことだった。

デトロイトの繁栄は、実はビッグスリーの全盛期よりもずっと早くはじまり、ビッグスリーの全盛期にはすでに斜陽に向かっていたのだ。


では、何がデトロイトの街を荒廃させたのか。

デトロイトでも、1920年代から30年代までは、自動車会社の重役でさえ、ニューヨーク支店に出張するときには、鉄道を使ってデトロイトからニューヨークまで行っていた。当時は鉄道駅もすごく繁盛していて、駅前のデパートは今の日本の東京や大阪の駅前の大型店と同じくらいの売上を出していたわけだ。自動車会社の重役が鉄道を使わずに、自分の会社が作った自動車でどこへでも行くようになり、さらに60年代以降はだいたいアメリカの国内の地方都市を回るときには飛行機を使うようになったので、デパートが衰退したわけだ。

ここでも、クルマ社会化の進展と、それと対をなす鉄道の衰退が根本的な原因となっている。その結果、駅前のデパートは衰退し、都心はドーナツ化現象を起こして、犯罪の多い地域に成り下がってしまう。相対的に裕福な階層はそんなダウンタウンを避け、郊外のゲーテッド" シティやゲーテッド" コミュニティへと逃げ出して行く。「シティ」とか「コミュニティ」という名が付いていても、それはもはや都市ではなく、コミュニティではなかった。都市やコミュニティの意味とは「いろいろな階層、階級の人が自然に集まる機会」のことだが、ゲーテッド" シティやゲーテッド" コミュニティには、監視カメラで来訪者を厳しくチェックするきわめて同質性の高い環境しか存在していないからだ。


そうしたクルマ社会化と都市の破壊を決定的にしたのが、万里の長城やピラミッドをも上回る世界史上最大の公共事業であったインターステイト" ハイウェイ(州間高速道路)の建設だった。

まずハイウェイがまん中を突き抜けた街が死滅してしまった。さらに、ハイウェイとの接続が悪くなった街も、即死ではないが、徐々に衰退していった。ハイウェイに対してアクセスはいいが、ハイウェイにまん中を貫かれなかったという幸運な都市だけが生き延びることになった。

当初の計画ではほとんどアメリカ中の大都市の中心部をインターステイトが貫通することになっていたが、さすがにニューヨークの市民はジェイン" ジェイコブズなどが先頭に立って猛烈な反対運動を展開した。インターステイト・ハイウェイ計画の当事者たちは、FDRドライブというマンハッタンの周囲を通る高速道路だけ作って、まん中は通さないという妥協で手を打った。「こんなに道路交通の不便な街にしてしまったら、ニューヨークはペンペン草も生えない街になる」とか捨てゼリフを言いながら。

しかし、まさにそのおかげでマンハッタンは、そのまん中をインターステイトが貫くことによってイーストビレッジとウェストビレッジが分断されるという悲劇を免れ、今も繁栄しているのだと言う。

反対運動の先頭に立ったジェイン" ジェイコブズは、アメリカの女性ノンフィクション作家" ジャーナリストであり、都心の荒廃を告発した運動家として有名だが、遺作となった『壊れゆくアメリカ』でこう述べている。かつては豊かで偉大な経済社会を形成していたアメリカを、貧富の格差と犯罪が蔓延する殺伐とした国に変えてしまったのは自動車だと。

人間がクルマを日常生活の足として受け入れ、路地や横丁を邪魔者扱いし出した瞬間からコミュニティの崩壊がはじまったのだと。

街中のジャズ" イベントは何をもたらすか

翻って、日本はどうなのだろうか。

なるほど日本でも、郊外や地方ではかなり以前から駅前商店街の衰退が問題になり、クルマで行ける大型ショッピングモールが商業の中心となっている。

しかしその一方で、東京や大阪といった大都市圏では今なお鉄道が交通の要であり続け、人の集まる駅前や、最近では駅ナカが小売業の熱い視線を浴びているのも事実だ。


そこには世界の先進国の中で日本だけが成し遂げた奇跡がある。

毎日膨大な数の乗客が利用する駅という存在を維持しつづけることで、大都市の犯罪発生率を欧米よりも一桁か二桁低い水準に押しとどめるとともに、首都高を走るクルマに占める自家用車の割合を2割という、これも欧米では考えられないような低いレベルに抑えることによって、物流の効率を飛躍的に高めることに成功した。

いずれも、日本では個人主義とプライバシーが過度に追求されることがなく、したがってクルマ、それも自家用車が必要以上には生活の主役とならなかったことに起因するものだ(アジアに特徴的な過密都市へのある種の指向性もその一因かもしれない)。


同書にはこんなエピソードも紹介されている。

このへんの事情は、東海道新幹線が開通したとき、当初は新幹線の全駅が在来鉄道の拠点駅とは別の場所に作られるはずだったという話とそっくりだ。東京、名古屋、京都の財界人は猛反対運動をくり広げて、それぞれ在来線の東京駅、名古屋駅、京都駅への新幹線乗り入れを実現して、その後の都市経済も順調に発展した。おめおめと「新」横浜駅、「新」大阪駅、「新」神戸駅を受け入れてしまった横浜、大阪、神戸は、その後都市としての発展で歴然と差をつけられてしまった。

アメリカで起こったのとはちょうど反対の事実がそこにはある。街殺しの自動車という存在と、街の生成を促す鉄道という存在の違いだ。自動車よりも鉄道に今なお多くを負っている日本の大都市の奇跡の理由はそこにある。

そうしてみれば、アメリカ文明がたどったのと逆の道を行くことは可能かもしれない。たとえば、鉄道によって形作られた郊外や地方の旧市街を、街中のジャズ" イベントを介して再び活性化させるといったことも。


古くからある街には文化がある。文化のあるところには人の行き来がある。そして、人と人とのつながりの中から新しい文化は生まれてくる。かつて宿場町として、また市場町として栄えた所沢には、そのいずれもがある。

エッジ" シティ(アメリカの衛星都市の一種で、クルマでの生活を前提として成り立っているのが特徴)からは決して文化は生まれない。文化という事件は、必ず人と人が徒歩で行き交う距離感の中で生起するのだ。


まだまだはじまって2年目の試みだが、所沢のジャズ" イベントのこれからの盛り上がりに期待したいところだ。