2007年7月12日木曜日

反・人権・宣言3

「個人の創造力」ということはもう十分すぎるくらい語られてきた。むしろ「社会の創造力」ということが、そろそろ語られていい頃だ。


「社会の創造力」の典型は映画やオーケストラだろう。

そこには監督や指揮者といった全体をまとめる立場の人はいるものの、作品は決して彼の「意図」で完結しているわけではない。

映画で言えば脚本家や俳優、カメラ、美術、音楽など、オーケストラで言えば楽団員全員がそれぞれの立場から創造に参加し、それぞれの解釈、それぞれの意図を作品に込めようとしている。

監督や指揮者は、それらを束ねひとつの方向にまとめ上げていくのだが、その行為は必ずしも彼個人の意図通りに全体を「デザイン」することとは限らない。むしろメンバーや楽団員が持つ無数の意図をどう「編集」するかというところに彼の力量が示されると言ってもいいだろう。


デザインは対象をひとつの色に塗り込めようとするが、編集は対象を生かし、その持ち味をうまく使いながら全体をまとめ上げていこうとする。

優れた編集は編集者個人の力量を超え、素材の持つ力を何倍にも膨らませることができる。

だから、完成した作品の出来栄えとは、彼ら全員の意図と注ぎ込んだ情熱の総和では計れない。総和をどれくらい超えて何倍に至るかということが作品の深みを決めるのだ。


個人で勝負しているように見える小説家でさえ、実際には編集者との二人三脚で書いていることが多い。

小説にかぎらず世に出ている本の多くは、編集者がもちこんだ企画をベースに、著者と編集者の対話によって作り上げられていくというのはよくある話だ。

さらに言うと、仮にまったく独力で書いたものであっても、その内容はやはり社会と無縁ではありえない。

結局のところ作品は、社会が共有しているイメージや文化、価値観と無縁ではありえないし、まったくそれらを共有しない作品はたぶん誰からも受け入れられないからだ。


こういう観点から「創造」を見直してみるならば、「個人の創造力」ということよりも「社会の創造力」ということの重要性と豊穣性が見えてくる。そういう観点から学校という「場」を見直してみるのも面白いだろう。