よく「創造性のある人間を育てなければ」という言説を聞く。
しかし、これは次のように読み替えられるべきだ。
「創造性のある社会を育てなければ」と。
ミシェル・フーコーは「人間はやがて波打ち際の砂のように消え去るであろう」と言った。
そこで言及されたのは、明白な意思・自己を持った「個人」というものは実は存在しないのではないか、そういうものを前提に考える近代西欧の考え方はもう破産しているのではないか、という問題だった。
ホッブズにはじまる社会契約論では次のように考えた。
「個人」が欲望のままに行動したら内戦状態になる。だから「個人」の権限を少しずつ制限して、超越的な存在(政府)に預けることによって平和を導こう、と。
そこから、個人の権限をどの程度預けるべきか、個人の権限が不当に制限されないようにするにはどうしたらいいか、などといういわゆる「人権」の問題が出てくるわけだ。
しかしフーコーはこう言う。
社会契約論は明白な意思をもった「個人(自己)」を最初に置いているが、明白な意思を持たない動物の世界にも「社会」が存在する以上、自己に先立って「社会」がまず存在しているのではないか、と。
そこでぼくはこう考える。
現代社会では、後から来た「自己」が優先されてしまったために、先にあったはずの社会の方があやしくなってきているのではないか。
だから、救わなければならないとすれば、それは「社会」の方ではないか、と。