2007年1月27日土曜日

不二家事件と権力の相貌

前のエントリーで悪戦苦闘(笑)しているうちに、不二家事件があった。

まったくひどい事件には違いないのだが、ここは不二家事件をめぐってどんな権力が働いているのかについて考えてみたい。


朝のテレビで、不二家事件の関係者(?)にインタビューしていた。

前に不二家で働いていたという男性はこう答えていた。

会社は利益の追求しか頭になく、品質なんかは二の次という感じだった

そうかも知れない。あれだけの騒動になってるんだからね。

しかし、ひとつ押さえておかなくてはならないのは、会社が利益追求を第一とすること自体は間違っていないということだ。

むしろ会社というところは利益を第一に追求しなければならないと言うべきかもしれない。ここが大方の左翼主義者にはわかっていないところだが、利益なんてよほどの独占企業でもなければ簡単には出ないし、利益が出なければ事業は継続できない。事業が継続できなければもちろん品質も何もあったものじゃないし、社員の雇用も確保できない。


問題は品質管理ができていなかったというその一点に尽きるのであって、利益追求云々は関係ないはずなのだ。


それに、この男性のいう通り不二家の「利益追求体質」がずさんな品質管理を生んだのかどうか。それはかなり怪しい。

この程度の発言は、居酒屋や酔っ払いで一杯の最終電車で耳を澄ませばいくらでも聞くことができる。おおよそどこの会社に行っても、会社の利益追求体質と自分たちの職場環境の悪さを肴にクダをまいている社員は大勢いるはずだ。

そうした連中が昨今の経営環境の厳しさと自分たちの努力の足りなさを認識しているかは極めて怪しい。むしろ、その会社にとって問題なのは、そういう社員を多数抱えていることだと言ってもいい。どうやったら利益が出るのか、そのためには顧客に何を提供しなければならないのか、そんなことを考えてみたこともないのだとすれば。


しかしこうした元社員の言葉も、いったん会社が不祥事を起こしたとなると、権力を持った貴重な証言に変わる。

そしてマスメディアは、そうした言説を集めて、消費可能な新しい「商品」をまたひとつ作り上げる。


またもう一人の登場人物は、やはり以前に工場で働いていた女性だった。彼女はこう言う。

今回の報道で言われているようなことは日常的に行われていました。それをおかしいと言えない雰囲気がありました。

この発言も注意して聞かなければならない。

「おかしいと言えない雰囲気があった」というのだが、この女性は果たしておかしいと言おうとしたことがあるのだろうか。

実に怪しいものだが、誰もそんなことは問わない。「会社」という怪物がまた問題を起こした。そこには、自由にものも言えない風土があった。だとすると社員もまた被害者だと言わなければならない。

不気味な(顔のない)会社のイメージだけが人々の心の中に広がっていき、ましてすでに会社を辞めている彼女がれっきとした共犯者だとは誰も考えなくなる。


そうしたイメージのひとり歩きが問題をいっそう遠くに押しやってしまう。

問題の在処は、東海村の原発事故を見ても、雪印を見ても、JR西日本を見ても明らかだ。異常に利益追求体質で陰湿な社風の会社が問題なのではなく、どこにでもある普通の会社の日常から事件が起こってきているのだ。むしろ日常こそが事件の原因になっていると言ってもいい。そのことに、ぼくらはもっと戦慄しなければならない。


いじめ問題と同じで、ここにはある種の権力が見え隠れしている。

単なるダメ社員(だったかもしれない)の発言がタイミングよくメディアに乗ることで、彼(女)は身の丈以上の権力を持つ。

何もたいした発言はしていない。ただ、ちょうどいタイミングでちょうどいい立場から、誰かに都合のいいことをしゃべっただけだ。彼(女)自身のオリジナルなものはそこに何もない。

そしてマスコミは、ただそうしたガラクタのような声を集めてメディアに載せるだけで、やはり巨大な(身の丈以上の)権力を手にする。

やはりたいした洞察力を発揮した訳ではない。機に乗じて、それ自体は何の価値もない証言を集めてきて、事実を材料に虚像を作り上げただけだ。


ここに現代における最大の権力の姿がある。

それは、言説が権力を持つということだ。体制権力による圧制の下でも、旧ソ連のように人々の口から口へ伝わる言葉によって正気は生き残ることができる。だが、言葉が巨大な権力となる時、正気の生き残る場所はどこにあるのだろうか。


少なくともぼくたちは、言説の持つ権力性に自覚的でいなければならない。