2007年7月10日火曜日

反・人権・宣言2

人権は一般に「人間が生まれながらにして有している権利」と解釈される。

しかし、この概念にはさまざまな観点から疑問符がつく。


まず、人権の概念はホッブズのいう「自然権」に由来している。

自然権とは、原初の「万人による闘争」状態の中で個々人が好き勝手に主張している権利のことだ。

ホッブズではこれは悪しきもの、制限されるべきものとされているわけだが、ホッブズを起源としているアメリカ独立宣言とフランス人権宣言では、これが「守られるべきもの」としてすり替えられているという問題がある。


ただし、独立宣言と人権宣言では「人権とは神によって与えられたもの」とされていた。

神に与えられたものである以上、その行使にあたっては「神への畏れとそれゆえの責任」が伴う。このことが、人権が勝手気ままに行使されないためのひとつの(精神的な)担保になっていたのだ。

しかしながら、キリスト教もしくはキリスト教的な宗教地盤のない国では、その責任を誰がどう担保するのか、という問題が大きく残る。


さらに、先のフーコーの考え方に基づけば、ホッブズさえも覆して、原初に勝手気ままな「自己」があったのではなく、原初(というものがあるとして)にはまず「社会」があったということになる。

そこでは、独立宣言と人権宣言が根拠にした「自然権」さえもその根拠が怪しいものとなり、「自己」だとか「権利」だとかの前にまず「他者との関係」があるはずだということになる。


この「他者との関係」という視点こそ、戦後日本における権利意識の肥大化や「個人の創造力」への過剰な期待に対するアンチテーゼになるのではないかと思うのだ。