あるサイトで、学校の通知表とその存在価値、評価の客観性をめぐる議論があった。
そこでも書いたことだが、重要な論点を含んでいるので、ここに再掲する。
評価をめぐる言説においていつも気になるのは、視点をあまりにも「個」にフォーカスしすぎてはいないか、ということだ。
数年前に会社の評価制度改訂を担当した。
その時に基本においたのは、「行動評価」ということだった。つまり、結果ではなく行動の中身で評価するということだ。
その裏には、行動が人間を作り、行動が結果を導く、という行動心理学の知見があった。
そのために、高い業績を上げている社員はどんな行動をとっているかというインタビューを社員に行い、分析した結果を評価基準(行動指針)として織り込んだ。
この考え方でいくならば、勉強が出来ても態度の悪い子どもは評価されない、ということになる。
それでいいと思う。いや、むしろそうあるべきだと思う。
行動心理学の視点に立つなら、なおさらそうだ。
テストの点数をそのまま通知表にすればいいという意見がある。
だがそれなら通知表など要らない。子どもが持って帰ってくるテストだけで十分だ。
通知表の価値はむしろ、テストの点数だけではわからない子どもの姿を第三者の目で見せてくれるところにあるのではないか。
それがどれくらい客観的かなんてことは、実は重要ではない。
多少偏っていたところで、たいした問題ではないのだ。
ぼくが担当した評価制度改訂のもうひとつのポイントは、「面談」を制度の核心に据えることだった。
評価は単独では意味を持たない。面談とセットになって、そこでフィードバックが行われ、認識のズレが(ゼロにはならないまでも)調整されるところに意味があるのだ。
評価というのは、どこまでも人間と人間の間にあるもの、人間くさいものだ。
人間が人間をどう評価するのか、それが重要なのだ。
人間が評価する限り、ある人の評価と別の人の評価との間には、必ずズレがある。
そこにコミュニケーションが発生する。むしろそのことが大事なのではないか。
絶対的な評価基準などという幻想は、コミュニケーションの余地を奪ってしまう。
通知表に秘められたそういう可能性を見ずに、通知表をそれ自体で完結したものとして見るのは、「個」という次元だけでものを見てしまうからだろう。
戦後教育の中で、ぼくたちは「人間は関係の中で生きるのだ」ということを見失いかけているのだと思う。