いささか乱暴だが、制度と正義には似たところがある。
どちらをめぐる議論も、「絶対」をめぐる議論であるという点において。
そして、どちらも「絶対はない」という事実をなかなか受け入れない点において。
現代思想とトヨタ生産方式が、まったく異なるアプローチから同時に到達したのは、「完成型はない」ということだった。
今や国内外の企業から引っ張りだこのトヨタの専門家は、トヨタ生産方式を導入した企業から必ず聞かれるという。
「ウチはいま何点くらいですか?」と。
トヨタの専門家は答える。
「点数などつけられません。トヨタ生産方式は永遠に進化しつづけるシステムですから」。
安っぽいキャッチフレーズではない。
それが「カイゼン」ということの意味であり、それはほとんど「徒労」と同義の泥くさい現実だ。
永遠にシステムは完成せず、どこまで行っても新しい問題が発生しつづける。
だが、そのことがトヨタの工場における従業員のヤル気を引き出しているのは興味深い。
それはまるで人生に似ている。
何度も岩を山上に持ち上げつづけるシーシュポスのように、生きるとは徒労であり、人生とは徒労の形態であると言ってもいい。
しかし、同時にそのことが人生のエネルギーでもあるのだ。
今や生命について語るとき必ず引き合いに出されるベルギーの科学者プリゴジン。彼の「散逸構造論」によれば、生命とは内部に増え続けるエントロピー(混沌の量)を絶えず外に吐き出し、そのことによって存在しつづける。
そこに完成型などはないし、むしろ完成型がないことによって生命は存在しつづけることができる。
水道の蛇口から勢いよくほとばしる水が、絶えずその構成粒子を変えながらも、一定の形態を保ちつづける、しかもほとばしりつづけることによってかろうじて水流はその形態を維持できるように。
考えてみれば、一生の間にぼくたちは何度顔を洗い、何度皿を食器棚に戻し、何度靴紐を結び直すのだろう。
それは永遠の反復であり、徒労と言えるかもしれないが、その行為をなぞるごとに、ぼくたちはまた新たに生まれ変わる。
何故なら、それらは単なる反復のように見えて、実はその度ごとに少しずつ異なる顔を持ってぼくたちの前に現れるはずだからだ。
そうした場所から見返してみれば、物事には完成型があるという近代主義の発想はとても滑稽だ。
トヨタ生産方式に完成型がないように、通知表の理想型などというものはないし、絶対的な評価基準などというものもない。
あるのはどこまでも、さまざまな関係性がその都度生み出す結節点としての評価であり、関係性の水面に投げ込まれた一個の石としての通知表だ。
そこから広がる波紋が、また新しい生命のエネルギーとなる。
ぼくたちがしなければならないのは、どこにもない「普遍性」を追い求めることではなく、ただその場その場の状況を見つめ、状況に向かい合って判断を下していくことだけだ。
そして、そう考えた方が人生ははるかに楽しくなると思うのだが、どうだろう?