2006年4月17日月曜日

システムのせいにするな

手の届かないシステムという発想

今日もどこかで、誰かと誰かの間で問題が起こる。


そんな時、ぼくたちは目の前にいる当の相手と話し合わず、問題をシステムに委ねようとすることがある。

これはシステムの問題だ。システムに問題があるからこんなトラブルが起こる。システムを変えてくれ。

「システム」と呼ばれる対象はその都度変わる。

社会、学校、会社、制度…。

要するに、そのときぼくたちの手の届かないところにあるものを「システム」と呼んでいるわけだ。


そこには「構造主義」の思考が影を落としているかもしれない。

言語学から社会学、精神医学まで20世紀の思潮に大きな影響を与えた構造主義革命。その余波が、構造主義など勉強したことのないぼくたちにまで、知らないうちに及んでいるということはあり得る。


構造主義によれば、ぼくたちの行動は目に見えない「構造」にあらかじめ規定されている。

「言語」であれ「文化」であれ、そこには無意識の構造があって、ルールがある。ぼくたちの言葉や思考や振る舞いは、気づかないうちにそれに沿ったものになっている。

現代を生きるぼくたちが、民主主義の概念から外には出られないように、個性や教育という概念から逃れられないように、ぼくたちは誰も、お釈迦さまの掌の上の孫悟空のように、構造の外に出ることができない。


ぼくたちはこう理解する。

構造がすべてを規定しているのだから、構造を変えないかぎり目の前の問題も解決しない、と。

構造を、一種の設計図のように考えるわけだ。設計図が間違っているから世界が間違ってしまう。設計図を正せば、世界も正しい姿に戻る、と。


だが残念なことに、世界は設計図から出来ているわけではないし、構造主義もそんなことを言っているわけではない。


問題を棚上げする

「構造」という概念はある意味で便利であり、それゆえに危険な概念だ。

構造を問題にすることによって、とりあえず目の前の問題を回避できる。

構造が問題なのだから、自分たちにはどうすることもできない、と。


だが、こうも言える。

問題を構造に委ねることによって、その問題は棚上げされたも同然だ。

何故なら、構造の問題とは解けない問題だから。

構造は、ぼくたちの「意志」によって成り立っているわけではない。それは、むしろぼくたちの無意識と無意識の連鎖から成り立っている。

そうである以上、意志によって構造を操作することはできない。誰も自分の無意識をコントロールすることなどできない。まして他人の無意識をコントロールすることはもっと難しい。


社会はもちろん、人間が作ったはずの学校や会社、制度でさえ同じことだ。

例え人間の意志によって、設計図に基づいて作られたものであっても、人間と人間の間にあるかぎりそこには無意識の構造が生まれる。ぼくたちには手を出しようのない構造が。

とすれば、構造を持ち出すことは体のいい責任逃れにしかならない。


善意の人々はもっと前向きにこう考えるかも知れない。

すなわち、構造を改善すれば世の中はよくなる、世の中をよくするために構造を改善しよう、と。

だが、姿勢がどうあれ、問題を構造の次元に移すことで結果として解決不能にしてしまっている点では同罪だ。


世界のクモの巣

答えは構造やシステムの中にはない。

前回も話題にしたトヨタ生産方式では、常に「現場」にこだわる。彼らは抽象的なシステム論など論じたりはしない。

トヨタの工場では、何か問題が起こったら、まずは現場に皆を集める。そこで、実際に起こっている現実を見ながら、解決策を考える。

どこまでも現場にこだわることを通じて、結果としてシステム=構造が進化していく、それがトヨタを支える「カイゼン」の思想だ。

そこには、「自分たちの手に届かないところにある構造」という発想はまったくない。

彼らにとって、構造は結果にすぎない。


構造主義の間違いは、たぶん構造を実体化してしまったところにある。

いや構造主義のために言うならば、構造主義が構造を実体化した訳ではない。おそらくは、「構造」という概念そのものの中に、受け止める人々がそれを実体として捉えてしまうような何かがあるということだろう。


構造は、現実世界のある瞬間を切り取ったスナップショットにすぎないのだ。

スナップショットをいくら問題にしたところで、問題の本質に迫ることはできない。


ただし、抜け道がひとつある。

たとえば、ある一定の時間をおいて、世界についての2枚のスナップショットを撮る。そうすれば、そこには必ず相違が見つかる。

そこにこそ構造主義が見落とした世界の実相がある。堅固に見えた構造の破れ目がある。


静止しているかに見えた構造も、実は動いているのだ。何故か?

答えは簡単だ。ぼくたちの無意識が動いているから。個々の無意識が動けば、その総体としての構造も動く。

世界を動かしている動因は、他でもないぼくたち自身なのだ。


いや、こう言ってしまったら、世界を意志の力で動かそうというのと変わらない。無意識の構造である以上、それはぼくたちの思うとおりに動くわけではない。

たぶん世界はクモの巣のようなものだ。ぼくたちが動けば、それにつれて、その重みの移動とともにクモの巣はかたちを変える。ぼくたちが石を投げれば、その度水面には波紋が広がっていく。

それらの総体が「構造」と呼ばれるものの姿なのだ。


そもそも世界とぼくたちを別個に捉えてしまったところに問題があるのかもしれない。

世界がぼくたちを規定しているのでもないし、ぼくたちが世界を規定するのでもない。

ぼくたちは世界の一部なのだ。ぼくたちの無意識とともに世界は動き、その世界の枠の中でぼくたちは生きている。


目の前の現実に働きかけること

そう考えてみれば、解決の糸口はむしろ現場にあると分かる。「構造」という抽象的な全体ではなく、「現場」という局所にこそ、可能性がある。そこでどう振る舞うのか、どう働きかけるのかが問題なのだ。

何故なら、現場にあるものだけがリアルなものであり、無意識を変えることができるのは「意識」ではなく「行動」であるから。

目の前の問題を何とかしたいと思うなら、目の前の問題に働きかける他ない。それこそが世界のクモの巣に変化を与えることなのだ。


最近の若者はマナーがなってないと思うなら、その時その場で言葉にすべきだし、抽象的なマナー論やしつけ論に話を転嫁すべきではない。

自分が受けた仕打ちに不満があるなら、制度論や世の中のしくみ論に話を持っていかず、目の前の相手に働きかけるべきだ。

そうした行為が身体的危険や身分上の危機を招くかもしれないが、そんなことはもとより承知の上の話だ。

現実に対して働きかけるとは、つまりそういうことだからだ。それを恐れているのだとしたら、やっぱり前向きに生きようとはしていないのだと言う他はない。


今、ここで、自分が何をするのか、常にそのことが問題なのだし、それが生きるということの意味なのだと思う。