2006年3月11日土曜日

自分という牢獄

茂木健一郎によれば、「文学とはため息の芸術である」と言う(「クオリア降臨」より)。芝居やドラマも同じなのだろう。「新選組!」を観ていると、そんな気になる。


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三谷幸喜

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たとえば新選組の初代局長芹沢鴨。

多くの新選組ものでは酒好き女好きで無法者の巨漢として描かれる。三谷幸喜の脚本では、そこにひねりを加えてひと癖もふた癖もある人物に仕立てられている。演ずるのは佐藤浩市。


近藤勇に同調するかと思えばそっぽを向き、沖田総司を可愛がるかと思えば「お前みたいな澄んだ目をした奴を見ると、徹底的に汚したくなるんだ」と言い放つ。

勤王の志士として筋の通ったところを見せるかと思えば、商家に押し入って金品を強奪する。

屈折した悪党、それ故に手がつけられない、それが佐藤鴨の姿だ。


すべての人がそうであるように、おそらく彼もまた「自分という牢獄」を生きているのだろう。

抜けようとしても抜けられない牢獄。高い塀を越えようとする者は、ぐるぐると回って元の場所に戻ってくる。

変わろうとする主体が、他でもない自分自身である限りにおいて、変わろうという試みは虚しく終わらざるを得ない。


しかし、彼を倒す近藤勇や土方歳三にしても、同じようなものだ。

変わろうとする時代の風を感じとりながら、彼らは「最後の武士」として生きる道を選ぶ。それが滅びゆく道とたぶん知りながら。


ドラマにしてみれば格好よく見えるその姿も、実際にはすごくぶざまな生き方に違いない。それでも、たぶん彼らはそのように生きる他なかった。それが彼らの牢獄なのだ。そして、そこにこそドラマ=文学があると見るべきだろう。

新選組が敗れ去り、近藤勇が死んだ後も、土方歳三は函館まで転戦してゆき、そこで死ぬ。

聡い彼ならばとっくに気づいていたはずだ。もう刀の時代ではなく、したがって武士の時代でもないということに。

しかし、やむにやまれぬ気持ちに沿って生きた結果、彼はやはり函館で死ぬ以外なかった。


芹沢鴨と違って、そんな自分に誇りを持って死ねた分、近藤や土方の方が幸福ではあったかもしれない。

しかし、そのことは近藤や土方の人生が崇高であったことを意味しないし、芹沢の人生が語るに値しないということを意味しない。悪役には人生の「ため息」が詰まっている。悪役を魅力たっぷりに見せることこそ文学のワザであり、文学の醍醐味であると言えるだろう(そういう意味では、新選組も元々明治維新の悪役だった)。


生きるということは正しいかどうかではない。そんな風に考えてしまったら、つまらない。