キーワードと言えば、「人権」もひとつの「キーワード」だ。
人権と言えば左翼が好む言葉だが、人権という概念をどう受けとめるかについてはあまり省みられたことがない。
どんな議論をしていても、人権と言われた瞬間に勝負はついてしまうから、省みられることもない^^;
「民主主義」という言葉も、ある種の文脈で使われた時には似たような効果を生む。
実際、アメリカはこの魔法の杖で、旧ソ連圏の親ロシア政権をすでにいくつも倒している。
親欧米勢力に肩入れして選挙をやらせる。政権側が勝ちそうになると、米国政府系の選挙監視団体が「不正があった」と騒ぎたてる(実際はどちらの陣営も同じくらい不正を行っているらしい)。
かくして、「腐敗した政権側と民主化を求める野党勢力」という図式が出来上がってしまう。こうなればもう勝負はついたようなものだ。政権側は世界を敵に回したようなものだから。
チューリップ革命もオレンジ革命もこうしてデッチあげられた。
「民主化」をキーワードとしたアメリカによる敵対国への攻勢はいたるところで行われている。イラン、中国、北朝鮮…。しかし、その戦略も最近は綻びが目につきはじめた。
先日中国が、インターネットの検閲は適切である、という談話を発表した。何故なら、青少年に害のあるコンテンツを放置するわけにはいかないからと。
中国政府のこの見解が妥当かどうかはあまり問題ではない。「民主化」というキーワードで斬りこんだアメリカだが、「青少年に有害なコンテンツ」という自由主義陣営の弱点をつく別のキーワードを投げ返されれば、返す言葉はないということだ。
もちろん、「中国政府のインターネット検閲は有害なコンテンツの排除というレベルを逸脱している」という反論はもちろん可能だ。だが、議論にもちこまれた瞬間に、「民主化」という伝家の宝刀の威力はすでに失われている。
存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
ミラン・クンデラ 千野 栄一
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キーワード思考は恐ろしい。
これをミラン・クンデラは「キッチュ」と呼んだ(存在の耐えられない軽さ」)。
わかりやすく、大衆を扇動する言葉。深みのない概念。
それらがぼくたちの頭から思考を奪っていく。
「人権」「民主主義」「平和」…。そうした言葉が出てくるところでは、必ず思考停止が起きている。
同様に、「愛国」や「天皇」という言葉を右翼が好んで使うとき、そこにも同じ響きが潜んでいる。
右でも左でも同じだが、どちらかに偏ると必ず原理主義が頭をもたげてくる。
逆に言えば、生の現実を見ようとせず、思想(キッチュ=キーワード)にすがって生きようとする態度のことを、その向いている方角によって右とか左とか言うのだろう。
「右傾化」と言う。
だが、「左」に対して「右」を置いてみたただけでは意味がない。上で見たように、左も右も同じことだからだ。
そのどちらでもないところに、「保守」という姿勢がある。
「革新」という言葉の嘘が明らかになるとき、保守という概念も別の可能性をもって浮かび上がってくる。
浅薄なキーワード思考に頼ることなく、現実の中で揉まれながら、そこにある生活の手触りのようなものを大切に生きること。
「ローレライ」の主人公のように、大切な人から渡されたものを守りながら生きること。
地味ながら、そこに「人間」が生きている。
その手触りのことをクオリアと呼ぶのかもしれない。
終戦のローレライ(1) (講談社文庫)
福井 晴敏
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