2006年2月15日水曜日

キーワード思考の危うさ

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三谷幸喜

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遅ればせながら「新選組!」をビデオで見ている。


時代がら「攘夷」という単語が頻出する。

当時「攘夷」は一種の流行思想で、猫も杓子も尊皇攘夷だったとか。坂本龍馬も近藤勇も最初はみんな攘夷の志士としてスタートした。


「幕府が腰抜だから、異人の奴らが我がもの顔で歩いてやがる。幕府の腰抜も異人どももみんな斬ってしまえ!大和魂を知らしめてやるのだ!」

しかし、こんな台詞を聞いていると、これって要するに原理主義テロリストだよなと思う。幕末の日本と現代のイラクはけっこう近いところにあるのかもしれない。


そこにあるのは、キーワード思考の危うさだ。

「攘夷」というキーワードがすべての行動の原理となっている。キーワードの奥にある生の現実に踏み込んで行こうという思考が働かなくなっている。


話は変わって、仕事の現場。

このところよく「コミュニケーション不足」だとか「情報共有不足」だとかが問題になる。


例えば、こちらにある情報があちらにはなかった。あればスムーズに進んだ物事が、なかったために齟齬が生じた。

こういう時に、「コミュニケーション不足」とか「情報共有不足」という。

どこの会社でも、「あなたの会社の問題点は?」と聞かれれば、この二つが間違いなく回答の中に含まれるだろう。


そこにも一種のキーワード思考が働いている。

何かが伝わらないことがあると、必ず誰かがこの言葉を口にする。みんなが首を振りながら同意する。「そうだよね。やっぱりね。ウチの会社には欠けてるよね」。

これで終わりだ。誰もがキーワードが出たところで問題点が明確になったと思い込み、その先にはいかない。


しかし、よく考えてほしい。本当にコミュニケーションや情報共有は「不足」しているのか。

それらが問題になるとき、ぼくたちの頭の中では、無意識のうちに「ある」状態があたりまえとして描かれている。あってあたりまえのものが「ない」ことを「不足」というのだから。


だが、本当に「ある」ことがあたりまえなのか。

特に問題がなければ、コミュニケーションは円滑で、情報は共有されるのだろうか。


ぼくは、会社に入ってからずっと情報の共有に何らかの形で関わる仕事をしているが、そしてその度にあれこれと工夫を施しているが、それでもいつも情報は「不足」している。


やり方が悪いのだと言われればそれまでだが、おそらく真相は逆で、コミュニケーションも情報共有も「ない」のがあたりまえなのではないか。

それが、ことさらに必要とされる状況が出てきたから、問題化するのではないか。


正しくは、情報共有が「不足」しているのではない。もともとそれはなかった。それがあたりまえだった。だが、状況が変わってそれが必要になった。それだけのことではないか。


もしそうならば、情報共有ができていないなどと嘆くこともない。ただ、共有するためにはどうしたらいいか、個別の問題として考えればいいことだ。あたらしい問題として取り組めばいいことだ。

それを一般化し、キーワード化してしまうから答えが出なくなる。


状況は常に動いている。

だが、その中に包み込まれているぼくたちはそれに気づかず、目の前の出来事を見る。中世の人々が地動説を信じなかったように、目の前を太陽が上っていくその現象の方が実体だと思い込む。


あってあたりまえだと思うから、たいした苦労もなく、ある状態に「戻せる」と考える。それが思うようにいかないものだから、問題が慢性化する。それでも、あってあたりまえという頭があるから、解決策も思い浮かばない。


だが、ないのがあたりまえとなれば、ある状態に持っていくのはたいへんだぞとわかる。

そうなれば腰を据えて考えることもできる。


問題を設定し、解決策を考える。それは近代的思考の正しい方法論だ。

だが、問題を設定した瞬間に解答の幅は決まってしまう。問題設定を超える解答は絶対に出てこないのだ。

「コミュニケーション不足」「情報共有不足」という問題を立てるかぎり、失われたそれらを「取り戻そう」という視点しか生まれてこない。


問題を立てるときには気をつけなければいけない。キーワード思考に陥っていないか、誰かがたてた問題に安易に乗っかってないか。

攘夷思想の奥を見ようとした坂本龍馬は、動いている大地の上に自分が立っていることに気づいたとき、開国派に宗旨変えした。

近藤勇の方は、それに気づきながらも、武士としての「誠」に殉じる覚悟をしたのだろうか。