2005年2月6日日曜日

存在の耐えられない軽さ

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
ミラン・クンデラ 千野 栄一

集英社 1998-11-20
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「プロレタリアートの独裁かデモクラシーか?消費社会の拒否か、それとも生産の増大か?そんなものは見当はずれの議論である。左翼の人間を左翼の人間たらしめているのは、あれやこれやの理論ではなく、どのような理論をも大行進といわれる俗悪なもの(キッチュ)の一部分にしてしまうその人間の能力である」

ふたたび「存在の耐えられない軽さ」を題材にしながら、今回は「キッチュ」について語りたいと思います。

一般的に「キッチュ」という言葉は、「大衆に迎合する芸術、俗悪なもの」という意味で(ときにはポジティブに)使われます。しかし「存在の耐えられない軽さ」の中で、ミラン・クンデラが語るのは「生き生きとした生の実相から乖離した、空虚化した観念」としてのキッチュです。

大行進とキッチュ

たとえばデモについて考えてみましょう。デモの大行進は

「あらゆる時代の、あらゆる傾向の左翼的人びとを結びつける政治的俗悪なもの(キッチュ)である」。

クンデラはそう言います。それは

「兄弟愛、平等、正義、幸福へと向かう素晴らしい行進であり、あらゆる妨害を越えて前進する」

と彼は言います。しかし、サビナの記憶にあったのは少女時代に参加したメーデーのパレードでした。それは労働者の連帯とも、友愛とも関係のない、現実の薄汚れた行進でした。うまく歩けなくて後ろの子からこづかれた記憶が、サビナにとってのパレードでした。

自由世界の「進歩的な」人々はそんな記憶を(もちろん)持たず、純粋に観念としてのパレードを味わいます。自分は今世界の良心と連帯している!この連帯が世界を変えるかも知れない!そんな歓喜が彼を包みます。しかし、クンデラによればまさにその歓喜こそがキッチュなのです。

プラハの春が破れてからちょうど2年目の記念日、パリで開かれた抗議集会では、フランスの若者たちがこぶしを突き上げ、ソビエト帝国主義反対のスローガンを叫んでいました。サビナはその行進の中でいたたまれなくなりました。
フランスの友人たちは驚いてこう言います。

「じゃあ、君は自分の国が占領されたのに対して戦いたくないのかい?」

彼女はこう言おうと思いました。

「共産主義であろうと、ファシズムであろうと、すべての占領や侵略の後ろにはより根本的で、より一般的な悪がかくされていているの。こぶしを上につきあげ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列が、その悪の姿を写しているのよ」

と。

それは左翼と右翼とを問わず、自由と革命とを問わず、人間が活動するあらゆる場所に存在しうる悪なのでしょう。
大行進やシュプレヒコールが生む歓喜は、肉体ではなく観念から生まれます。観念が世界を支配するとき、そこにはある種の抑圧が生まれ、私たちを疎外するのです。そこにはもう肉体の存在する場所はなく、抽象化された観念だけが我が物顔で振る舞うのです。

しかし、それを彼らに分かるように説明することは不可能だとサビナは知っていました。彼女はただそこを立ち去ることしかできませんでした。

兄弟愛の耐えられないキッチュ

またあるとき、ドイツの政治組織が催した展覧会にサビナの絵が展示されました。パンフレットには、有刺鉄線に囲まれた彼女の写真があり、こんなコピーが添えられていました。

「自由のために、絵で戦っている」

そこに書かれた彼女の経歴は、まるで殉教者のそれのようでした。

「私の敵は共産主義じゃなく、俗悪なもの(キッチュ)なの!」

彼女はもちろん主催者に抗議しましたが、誰もとりあってはくれませんでした。

チェコ人であるということ、しかも亡命したチェコ人であるという外面的事実が、現実の彼女自身とはまったく無関係に記号化され、別の意味を持たされていたのです。しかもその意味というのが、画家である彼女が激しく憎むところのキッチュそのものであったのです。

それ以来彼女は経歴を外に出すことをやめ、チェコ人であることさえ隠すようになったのでした。


やがてアメリカに渡ったサビナは、ある上院議員とその子供たち4人と一緒にドライブに出かけます。スタジアムに着いて、子供たちが芝生の上を駆けだして行ったとき、その光景を眺めながら上院議員はこう言います。

「あれを見てください。こういうのを幸福というのです」

彼の手は空中に円を描いていました。その円は、スタジアムと子供たちと子供たちが駆けていく芝生を包み込んでいました。

その言葉は、共産圏から亡命してきた画家としてのサビナに向けられていることはたしかでした。彼にとって共産圏とは、草も生えない、子供が走り回ることのない世界だったからです。

クンデラはこう続けます。

「俗悪なもの(キッチュ)は続けざまに二つの感涙を呼び起こす。第一の涙は言う。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!

第二の涙は言う。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!

この第二の涙こそ、俗悪(キッチュ)を俗悪(キッチュ)たらしめるのである。

世界のすべての人々の兄弟愛はただ俗悪なもの(キッチュ)の上にのみ形成できるのである」

兄弟愛のどこが悪い、と怒り出す人がいるかもしれません。しかしそう考える人はすでにキッチュの罠にがっちりと捉えられてしまっています。生き生きとした現実ではなく、言葉の世界に、記号の世界に生きているのです。

駆けていく子供たちの姿を眺めるのはたしかに幸福だと言えます。それは、いまここで眺めている私やあなたの幸福です。それは今ここで起こっている具体的な体験です。しかし、それを人類愛だとか兄弟愛だとかに昇華させようとする心の動きには、明らかに抽象化の作用が働いています(記号学者のロラン・バルトはこれを記号の神話化作用と呼びます)。

そのときあなたはもう現実のこの世界には生きていない。位相を変えるようにこの世界からふっと姿を消して、亜空間のような記号の世界にイってしまっているのです。


革命を叫ぶ人たちも、自由世界にいながら自由を叫ぶ人たちも、みな「イっちゃってる」人たちだと言ったら言い過ぎでしょうか。

こんなことを言うと多くの人を敵に回すかもしれませんが、ジョン・レノンの「イマジン」はキッチュだったし、かつて歌われた反戦歌の多くがキッチュだったのではないでしょうか。それらは、現実の世界とはなんの関係もない「自由」や「平和」のイメージをいたずらにバラまいただけではなかったでしょうか。

存在の耐えられない成人式

もう少し身近な話題を取り上げましょう。先日インターネットのある掲示板で成人式のことが話題に上りました。
今年の成人式は自治体側の対策が奏功したのか大きな騒ぎはありませんでしたが、毎年この季節になると成人式で暴れる若者たちのことが話題になります。その語り口はたいてい「最近の若い人って何考えてんのかしら」というトーンです。

いや、私も暴れる若者には問題があると思います。度を過ぎるようであれば、社会的な制裁も必要だと思います。しかし、同時にいつまでこんな茶番をやりつづけるつもりだろうとも思うのです。

誕生日や卒業式と違って、自分の内的必然(気持ちの区切り)とは何の関係もない日に、大学のマスプロ授業みたいな大会場に集められて、市長やら代議士やら、いずれにしても自分とは縁もゆかりもない人たちに壇上から訓辞される。しかもたいていそれは「君たちも今日からは成人としての自覚を持って」などという、毒にもクスリにもならない分かりきった演説なんですね。これが茶番でなくて何だと言うのでしょう。

掲示板でこういう意見を述べたところ、「あなたが成人式を否定するのは自由だが、成人式に出て感謝の念をかみしめる人もいる。そういう人の気持ちを尊重すべきだ」という意見をいただきました。

そもそも誰に対する感謝なのか。マスプロ成人式で誰が誰に感謝するのか。その「感謝の念をあらたにする成人式」という概念は実体のないキッチュではないでしょうか。「成人としての自覚」という概念と同じように。

それらはいずれも、具体的な体験から生まれた言葉だとは思えません。それらは抽象化された、根拠のないイメージでしかないと見えます。キッチュを憎み、その呪縛から逃れる旅をつづけたサビナのように、壇上で暴れる若者たちはその鋭敏さのゆえにキッチュの独裁に耐えられないだけなのではないでしょうか。

抽象化の罠

理想を語る言葉は美しい。理想はそれを最初に生み出した人にとってこそ内的な必然とつながったものであり、それゆえリアルで具体的な何かなのだと言えます。しかし、観念として多くの人々に共有された瞬間にそれは抽象物と化します。内的必然とのつながりも、リアルさも失って、観念は人々のあいだを空中高く飛翔するのです。こぶしを突き上げながら行進する人々は、その飛翔感に酔いしれていると言えます(音楽が美しく、しばしば人を陶酔させるのはその抽象性のゆえかもしれません)。

もちろんそうした抽象化が、理想を人々のあいだで共有させることを可能にしているのも事実です。抽象化されないものは個人のものであり、広く共有されることはありません。十字架という抽象を得たことによってキリスト教は世界宗教へと飛翔する切符を手に入れたし、三位一体というさらなる抽象化によってそれを確実なものにしたと言えます。

しかし、私たちはその抽象化には気をつけなければなりません。抽象化は容易に全体主義へと私たちを導くからです。音楽が抽象的な平和や愛を語るとき、コンサート会場を埋め尽くす聴衆は巨大な陶酔の坩堝(るつぼ)の中にあります。それが右翼のものであれ、左翼のものであれ、宗教のものであれ、キッチュは観念の独裁と同じ場所にあり、肉体の抑圧と隣り合わせなのだと言えるでしょう。


最近亡くなったアメリカの作家兼批評家のスーザン・ソンタグは、911テロの時にこんな文章を発表しています。

重要なのは「文明」や「自由」、「人道性」、あるいは「自由な世界」にたいする「卑劣な」襲撃なのではなく、世界の超大国を自称する合衆国にたいする襲撃、つまりアメリカの行動や利益の結果にたいする攻撃なのだ。


議会の凡庸な満足と全員一致の喝采は、唾棄すべきものにみえた。ここ数日のあいだ、現実を覆い隠そうとする道徳的なレトリックの全員一致がアメリカの要人たちやメディアによって唱えられており、この一致は成熟した民主主義には値しない。

2001/09/19 ル・モンド

911はアメリカの指導者たちが沈痛な面もちで語ったようなものではなかった。それは民主主義への挑戦でも自由への侵犯でもありませんでした。それは単に超大国アメリカへの宣戦布告であったのです。そこには、ただ非常な手段による宣戦布告があり、それへの怒りや絶望があり、人々の怒りや絶望をひとつの方法へと結びつけていこうとする政治集団があり、それと結びついた満場一致のキッチュ(道徳的なレトリック)があったのです。

私たちを欺くキッチュ

最後に、キッチュのもつ危険性をめぐるエピソードをひとつ紹介して、このお話を終えることにしましょう。

先頃ウクライナの大統領選のやり直しが行われ、民族系の野党候補がロシア寄りの現職首相に勝利して幕を降ろしました。

昨年11月に行われた投票ではいったん現職首相が勝利したのですが、大規模な不正が行われたとの抗議がただちに野党側から出され、欧米各国もそれを指示する声明を出したところから、事態は紛糾しはじめました。

あくまで選挙の公正性を主張する首相側に対し、市民が結束し首都で大規模な集会を開くなどの行動を起こしました。抗議集会に集まる市民たちがみなオレンジ色のマフラーや帽子やセーターを身につけ、会場がオレンジ一色に染まったことから、それはオレンジ革命と呼ばれるようになります。こうした経緯を経て、最高裁でも選挙の無効とやり直しが決定されました。そしてやり直された選挙で、最終的に野党候補が勝利をおさめたというわけです。

「政府が選挙不正をしたが、市民と野党の努力で暴かれた」「市民の結束が不当な権力を倒した」。これによってベルリンの壁崩壊以来の、いやフランス革命以来の自由と公正の神話がまたひとつ増えたというのが、大方の理解でしょう。

しかし、本当にそうなのか?と疑問を投げかけるのは、インターネットで国際情勢分析を発表している田中宇(さかい)氏です。

田中氏によれば、今回の政変の背後にはアメリカの影がちらついています。アメリカは、2000年のユーゴスラビア、2003年のグルジア、2004年のベラルーシでも野党側を陰に陽に支持し、ベラルーシ以外では親ロシア政権の転覆に成功しています。

そのいずれにおいてもアメリカのやり方は共通しています。田中氏の文章から引用します。

まず、分裂しがちな野党諸勢力を一人の候補のもとに結集させるべく、アメリカ大使館(国務省)が事前に根回しをしておくとともに、その国のマスコミの中の野党シンパをネットワーク化しておく。野党陣営の中堅リーダーとなる若手勢力を養成し、最初の成功例であるユーゴスラビアの若手指導者をグルジアやウクライナに派遣してデモのやり方などを習得させる。

野党陣営には一つの単語からなる象徴的な名前をつける。ユーゴスラビアでは「抵抗」という意味の「オトポル」、グルジアでは「もうたくさんだ」という意味の「クマラ」、そしてウクライナでは「今がチャンスだ」という意味の「ポラ」(Pora)という名前を運動体につけている。

選挙戦が始まると、アメリカの共和党系のIRI、民主党系のNDI、欧州系のOSCE、米政府系の援助団体であるUSAID、人権団体の「フリーダム・ハウス」、ジョージ・ソロスのNGO「オープン・ソサエティ」などが選挙活動の監視にあたる。政府系の候補が勝ち、野党系が負けた時点で、それらの団体がこぞって「選挙不正があった」と主張し始める。英米のマスコミは、選挙前から「選挙不正がありそうだ」と報じ、選挙後は「やっぱり不正があった」と大々的に報道を開始する。

国内マスコミの中では、比較的反政府なテレビ局などが不正を報じ始め、国営報道機関のジャーナリストの中にも野党側に寝返る者が相次ぎ、そのころになると警察や官僚の中からも鞍替えを表明する者が増え、議会や行政府が野党のデモ隊によって占拠され、混乱の中で本当は野党の候補が勝っていたと宣言される。

欧米諸国はそれを承認し、最後には政府系候補を支援していたロシアも野党勝利を承認せざるを得なくなり、欧米から圧力をかけられた政府系候補が敗北を認め、政権転覆が実現する。

実際、与党側の不正を発表したのはいずれも欧米の政府系選挙監視団で、独立系の人権団体がつくる選挙監視団は「ウクライナ政府が不正を行った兆候はない」と発表しています。

仮に与党側に不正行為があったとしても、それと同等かそれ以上に野党側も不正を行っている可能性がある、と田中氏は分析しています。

また、ロシア系の政府と市民との対決、という構図もあやしいものです。ウクライナの民族構成は決して均一ではなく、東部はロシア系住民が多く、西部はウクライナ系の住民が多いそうです。与野党の争いは、政府対市民ではなく、東部と西部の主導権争いという側面を持っていたようです。実際今回の野党勝利の結果、東部が独立への動きを見せているという話も聞こえてきます。


田中氏の観測が正しいかどうか、私たちには知るすべがありません。真相はほとんど藪の中で、それを知るのは世界でもひと握りの人間だけなのかもしれません。しかし大事なことはそんなことではありません。「オレンジ革命」だとか「民主主義の勝利」といったきらびやかな政治的キッチュに陶酔しているあいだに、私たちはすっかり欺かれていたのかもしれないというその可能性の方です。

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キッチュが危険なのは、それが人を眩暈させ亜空間へと押し出してしまうことによって、現実を見えなくさせてしまうからです。現実よりも観念やイメージの方が大事であるように思わせてしまう。そのことは、実は共産主義にも自由主義にも共通しているのです。

「脳は見たいものを見ようとする」(「海馬」糸井重里+池谷裕二)。そう、大脳生理学者の池谷裕二氏によれば、脳には積極的に錯視へと向かう性質がありました。キッチュは巧妙に錯視をつくりだし、私たちを欺くのだと言えます。それは私たちの背後にいて、常にチャンスを窺っていると言っていいでしょう。


クンデラはこう言っています。

「われわれのうちの誰もが、俗悪なもの(キッチュ)から安全に逃れられる超人ではない。たとえわれわれができるかぎり軽蔑しようとも、俗悪なもの(キッチュ)は人間の性(さが)に属するものなのである」。