2006年7月5日水曜日

この国に生まれたから

「新選組!」(大河ドラマ)→「功名が辻」(大河ドラマ)→「功名が辻」(小説、司馬遼太郎)と一筆書きして、今は司馬遼太郎の対談集「歴史を動かす力」(文春文庫)を読んでいる。


歴史を動かす力―司馬遼太郎対話選集〈3〉 (文春文庫)歴史を動かす力―司馬遼太郎対話選集〈3〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎

文藝春秋 2006-05
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その中で、歴史作家の故海音寺潮五郎がこんなことを言っている。


あるテレビの番組で、アナウンサーが子どもたちに「日本が好きですか」と聞いたという。

子どもたちはみな「好きです」と答える。

「どんなところが好きなのか」と聞くと、「景色がよいから」とか「気候がいいから」という答えが返ってくる。


それを聞きながら海音寺氏は苦々しい思いだったという。子どもたちの答えはみないつか大人から教えられた答えなのだが、一番肝心なことが教えられていないと。


海音寺氏は言う。

何故大人たちは「この国に生まれたからだ」と教えないのか、と。


「この国に生まれたからこの国が好きだ」。

その言葉には、ある種の覚悟のようなものが感じられる。


人間がある国に生まれるということはどうすることもできない運命であり、その運命故にその国を愛し、立派にすることに努力しなければならないのです。(前掲書)

ここでもやはり「いまここ」が重要な位置を占めている。

「世界市民」だとか「国際人」だとかいう想念は美しいが、それらのイメージはつまり自分の所在をいったん保留にし、「いまここ」を先に繰り延べる。結果、目の前の現実からぼくたちの目を遠ざける効果を持つ。


今ぼくたちに必要なのは、自分がいま存在しているその場所において否応なしに何かに所属している、そのことに耐える勇気ではないか。

所属するとは実はエネルギーのいることだ。所属しないことよりもはるかに。


しばしば運命に抗って生きる姿を人は讃える。しかし、讃えるべきなのは実は、運命を受け入れて生きることではないのか。


愛国心の問題は、そういう地点から考え直すべきことのように思う。