民主主義とは一種の運動のようなものだ。
それは絶えず民主主義であろうとすることによって民主主義たり得る、そういうものだと思う。
それは理想の楽園ではない。そこに到達すればすべてが解決するような場所ではないし、そこに行くための処方箋があらかじめ用意されているわけでもない。
それどころか、「これが民主主義」という明確な何かさえ存在しない。
何故なら、「民主主義」とは形態の名前ではなく、運動の名前であるからだ。
アメリカの民主主義は「草の根民主主義」だが、ヨーロッパの民主主義は「ノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」に支えられた民主主義だ。
「賢者」が大衆をリードすべきだというエリート思想が、21世紀の今でもヨーロッパの社会には息づいている。
一方左翼の人たちは、「日本の民主主義は本当の民主主義じゃない」とよく言う。彼らが漠然と理想にしているのはアメリカ型民主主義なのだろうが、ヨーロッパ人に言わせれば、アメリカの民主主義は「愚者の民主主義」ということになる。
どちらが正しいかではない。それぞれの風土に根ざしたそれぞれの民主主義があるということだ。
繰り返しになるが、民主主義とは万人が赴くべき場所のことではない。それは、万人がそれぞれの現実において選びとるべき「方法論」の呼び名だ。
同じ方法論で歩いていったとしても、違った現実からスタートした先には、おそらく百万通りの世界像があることだろう。