2006年1月24日火曜日

オフコースの時代

一昨日、NHKで小田和正の特集をやっていた。


あの高い声は相変わらずと聞こえるが、彼ももう58だそうだ。声も楽に出しているわけではなく、いつ出なくなるかという不安との闘いだという。


オフコースを聞いていた時代があった。もう20年以上も前のことだ。

そこにはいくつもの記憶の風景があり、その中には妻の姿もある。

あれから20年。こちらが歳をとった以上に、あちらはもっと歳をとっていた(当たり前だが)。


10年ほど前、アルバムが売れなくなってから小田和正は曲づくりのスタンスを変えたのだという。

以前は完璧な曲を作って、完璧に演奏する。そこに客はいなくてもよかったのだという。「とても自分勝手だった」と。

そうかもしれない。昔、オフコースのコンサートに行った友だちが、「オフコースのコンサートは係員までそっけない」と評していたことがあった(その後自分で行った時にはそうは感じなかったが)。

確かに小田和正は完璧主義で知られていた。


そんな彼が売れなくなった時にスタンスを変えた。

同世代に呼びかける曲を書くようになった。定年を迎えようとする同世代の人々に語りかける曲を書くようになった。


「この国のすべてを 僕らがこの手で変えてゆくんだったよね」


それからコンサートの客層に年輩の男性が増えたという。


ジムに通い、ジョギングに汗を流し、自らも体力の衰えと闘いながら、同世代にエールを送る歌を歌い続ける小田和正の姿を、番組は追っていった。

横で一緒に見ていた妻が言った。


「昔の小田さんの方がよかったなぁ」


そう、ぼくもそう感じていた。

人生の中で、いくつかの音楽に出会う。明けても暮れてもその曲と一緒にいる。

時が流れて人生のステージが変わり、別の曲と出会う。

そんな風にして、いくつかの音楽と出会いながら、人生が過ぎていく。

音楽とはある意味、それだけのものでしかない。それは確かにかけがえのないものだが、それにも関わらずやっぱりそれだけのものでしかないのだ。残酷なようだけれど。


音楽アーチストは曲がすべてだ。その後ろで彼が何を考えているかは、聴く者には関係ないのだ。

ただ、ぼくたちはある曲と出会い、好きになる。その時には、歌詞さえもどうでもいいことがある。歌詞のストーリーよりも一瞬のフレーズが心を捉えることがある(皮肉なことに、その一瞬のフレーズの巧さに長けていたのが小田和正だった)。そして次の瞬間には別のことを考えている。

ただ、そんなつかの間の出会いの中でも、音楽に元気づけられることがある。それが生きる力になることがある。


それだけで十分なのだ。


そういう意味では、番組のターゲットはぼくたちではなかったのかもしれない。ぼくはまだまだ定年ではないし、そんなストーリーに元気づけられる歳でもない。

ぼくにとって、そこには出会いはなかった、それだけのことかもしれない。