2006年4月20日木曜日

本と個人主義

毎度同じような話で恐縮だが、本というものも決して最小単位とは言えない。


ぼくたちは「本」を問題にし、「著者」を問題にする。

だが、実際にはキーワードやセンテンスによって本は別の本とつながっているし、何よりも本は外の世界とつながっている。


表紙も表紙に刻印された著者名や題名も、自他を区別しアイデンティティーを主張するが、それは本が独立した存在であることを意味しない。


ぼくたちは好きなところから本を読みはじめるし、好きなところで本を閉じる。

ある一節を読んでは、顔を上げ、また本を閉じ、外の世界のことを考える。

あるいは、別の著者の別の本を引っ張り出して、同じ主張があるのを確認したりする。


ウェブがそうであるように、本もまた実際は、リンクでつながったクモの巣なのだ。


だから、タイトルや著者名は決してアイデンティティーを主張するものではない。

それらは一種のキーワードにすぎない。注意を喚起するための、他とつながり合うための。


実際には、情報の送り手にとっては、もうずいぶん前からタイトルも著者名も、一種のSEO(Search Engine Optimization)キーワードだったのかもしれない。人間の「意識」という検索エンジンに引っかかるかどうか、そういう視点でタイトルや著者名は刻印されてきたのかもしれない。つまり、キャッチコピーということだ。

そして、受け手であるぼくたちの無意識もそれに気づいていたかもしれない。


気づいていなかったのは「意識」、つまり個人の意識だけだ。

「著作権」が問題になってくるのは、そういうところにおいてであろう。著作権とは垣根のないところに垣根を作るものなのだから、当然と言えば当然だ。


本が情報の束であり、人間もまた情報の束である(生命を定義づけているDNA自体が情報の束であった)以上、著作権とは海の真ん中に引かれた国境線のようなものだ。


これからたぶん1世紀ほどの間、「個人」をめぐるせめぎあいがつづくだろう。

それはおそらく、「個人」をどう解体するかというプロセスになるだろう。


アマゾンが本をページ単位で売るようになった今、その動きがますます加速することは間違いない。