ホリエモン逮捕をきっかけに、その異端的なやり方をよく思っていなかった人々の不満が、一気に噴き出したかのようだ。
ライブドア商法の犯罪性というレベルを超えて、ネットにもメディアにも、そのマネーゲーム的なやり口を批判する声が満ちている。
その主な矛先は、「金で買えないものはない」というホリエモンの発言に向けられているようだ。
だが、金を稼ぐことイコール成功と考える奴はいつの世にもいる。それがことさらに増えているとは思わない。むしろそうした輩は、戦後から高度経済成長の時代の方がよほど多かったのではないだろうか。
拝金主義批判の起源は古い。たぶん日本における資本主義の歴史と同じだけそれはある。
とすると明治時代?
いや江戸時代の日本はすでに高度な資本主義を実現していたと言われている。
そもそも、商人が士農工商の最下位に置かれたのも、重農主義政策をとる徳川幕府の下で、商人の社会的地位を意図的に貶めようとしたからではなかったか?
だから、日本における資本主義の歴史も拝金主義批判の歴史も、もっとずっと古いと見ていいだろう。
一方で、しばしば耳にするのが、若者たちにハングリー精神が足りないという声だ。
だが、ハングリー精神などというものは、実のところ金持ちになりたいという欲求と不可分のものだったのではないだろうか。
若者のモチベーションは、多分社会の活気と比例関係にある。そして社会の活気は、貧しさや不満の量と関係がある。
少なくとも、快適な生活からはハングリー精神は生まれてこないだろう。
では、ホリエモン的マネーゲームはハングリー精神から生まれてきたのか?
そうは言わないにしても、彼の成功が一旗上げたい若者たちの励みになっていたという面は、メディアのもう一方の論者たちが指摘するとおり、やはりあるだろう。
そんなものは「本当の」ハングリー精神じゃないと、多くの人が切って捨てるかもしれない。
だが、「本当の」という接頭辞とともに何かが語られるときは、気をつけた方がいい。
彼らがイメージしているのは、例えば「明日のジョー」だ。あの純粋さがホリエモンやそれに追随する連中には微塵も感じられないと、彼らは言うに違いない。
そんなふうに感じてしまうのは、ハングリー精神だとかやる気だとかを、何か美しいもののように考えているからだ。そこにはある種の抽象化がある。
金持ちになりたい、それは資本主義社会において、当たり前の心理だ。
そのギラギラとした欲望が強烈な上昇気流となり、成功への物語を生む。それらの総体が社会の活気となって現れる。
それがすべてではないにしても、それもまた、れっきとした資本主義のひとつの姿だ。
ホリエモンの逮捕から読み取れることは、実はたいしてない。
せいぜい、ITベンチャーの成功者が企業拡大の過程で道を誤ったというだけのことだ。
多少深読みしても、踏んではいけない誰かのシッポを踏んでしまったとか何とか、そんな隠れたストーリーがあるかないかくらいのところだろう。
何でもかんでも社会問題化してみせるやり方にはそろそろウンザリしはじめている。